好き嫌いは自然現象みたいなもの

他人に好かれるとか嫌われるとかに関心を向けすぎ。もっと自然現象みたいに受け流せば良いのに。

みたいなことを成田悠輔が言っていた。

たしかに、と思った。なにしろバランスが良い。

過去

自分は過去、他人に嫌われるのが“悪いこと”と定義していた。
「自分の行動によって他人に不快な思いを抱かせているのだから、嫌われるのは悪いことである」そういう思考回路だった。

現在

嫌いな相手に気を遣って無理をした結果、声を失って散々な目に遭って以来、すっかり用心深くなってしまった。

私に害なす存在には関心を向けなくなった。
わざわざ仕返しすらしない。見方によっては冷たい態度とかいじめだとか言われかねないから、挨拶と返事だけはする。そうしておけば「あの人が無視してくるんです!パワハラです!」と訴えられた時に弁解の余地がある。

否、意図的に無関心でいる選択をしているということは、しっかりと相手に関心を持っているということになる。

見ないように、反応しないようにと常に心がけているのだから。

わざわざ排除するような動きはしないが、同じ場所にいないようにタイミングをずらしたり、なるべく関わらないでいられるように立ち回っている。
なかなかの負荷を感じる。しかし何も対策せずにうっかり関わってしまう方が余程ストレスだから、避ける取り組みは必須である。生きづらい。

成田氏の言葉

好かれるとか嫌われるとかに関心を向けすぎ。
自然現象みたいに受け流せばいいのに。

この言葉を聞いて「バランス良いな」と思った。

というより、これこそ本当の無関心だと思った。

天気の話は雑談の定番。
晴れの日は「やあ良い天気だね」「気分がいいね」「出掛けたくなるよね」と明るく外向的な感想が出やすい。
雨の日は「やんなっちゃうね」「服が濡れちゃったよ」「あんまり続くと困るよね」と後ろ向きな感想が浮かびがちだ。

私の存在はきっと、雨みたいなもの。
私を見て明るい気持ちになる人は、おそらく少ない。

しかし一方でファンもいる。
何を気に入ってくれているのか確かめたことはないが、何か通ずるものがあるのかもしれない。

雨と同じ。
嫌われやすいが、好きだという人もいる。
嫌われやすいが、雨だって降らないと困る。
あまり続くとうんざりするが、たまには降ってほしい。

ほらね。


万人に好かれるわけではないが、自分のような存在もいた方がいいと考えている。
同じような人間が集まりすぎると思考が偏る。
そこで役に立つのが自分のような存在。新しい視点をもたらしたり、抑止力として働く効能が期待できる。

とは言え、多数派を占める派閥にとっては”水をさす存在”として疎まれるのだろうから、普段はひっそり暮らすのがいいのだろう。

いつか必要とされる時が来たら、どういう存在なら歓迎されるだろうか。